映画の平行線 第13回:『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』

毎月公開される映画を交互に語り合っていく人気連載。今回は月永理絵さんが、16歳でフランス王妃となったメアリー・スチュアートと英国のエリザベスⅠ世を描いた『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』を取り上げます。

by RIE TSUKINAGA
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01 April 2019, 11:20am

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 映画の女 を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライター・月永理絵と文筆家・五所純子が意見交換していく往復コラムです。


先日、川崎市市民ミュージアムで『ボーン・イン・フレイムズ』を見た。1983年に、リジー・ボーデン監督がつくった“フェミニズムSFカルト映画”。それはたしかに“フェミニズム”映画であり、“SF”映画の形に準じた作品だった(“カルト”と呼ぶべきかどうかはまた別として)。現代の都市を架空の時代設定に置き換える語り口。街中で自由に撮影を重ね、非職業俳優たちに場当たり的に演技をさせ、それを編集によってつないでいく手法。今ではさほど珍しくないが、だからこそ今の時代にしっくりはまり込む。監督自身は、これは少数者の抗議を表明するための手段としてつくられた映画であり、現代では本作の持つ役割はSNSが果たしてくれるだろう、と話している。なるほど映画をつくった目的そのものは時代と共に何かに置き換えられていくのだろう。でも、SNSのような発信力や拡散力は失っても、映画の持つ力は色あせない。むしろ現代映画よりもずっと新しい何かがある。

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Image Courtesy of Lizzie Borden and Anthology Film Archives, New York. Distributed by Cinenova.

『ボーン・イン・フレイムズ』の舞台は近未来のニューヨーク。「解放闘争から10年が経ち…」という言葉が何度も発せられるが、解放闘争の詳細はわからない。ともかくアメリカは理想の社会民主主義国家になったのだと、テレビのニュースは伝えている。だが当然のように、理想郷は実現しない。ニューヨークでは街中でのレイプが多発し、女は不景気のために女の仕事が奪われ、「家事に対する賃金を」という大義面分のもと、家庭に押し込められる。メディアは権力の手先となりはて、海賊版ラジオだけが、細々と政権に異をとなえている。荒廃し、腐敗したニューヨークで、革命に燃えるフェミニストたちが政権を転覆させる計画を練る。

『ボーン・イン・フレイムズ』はテロリストたちの交渉術をめぐる映画だ。社会変革をめざすフェミニストたちにはいくつかのグループがあり、それぞれに縄張りと掟を持っている。そのなかで、同性愛者の黒人女性アデレード・ノリスは、団結を目指して各グループに共闘を呼びかけるが、意見も仁義のあり方もばらばらで交渉は決裂。けれどある事件をきっかけに交渉が再開され、みなが手を組みはじめる。それは『金子文子と朴烈』が用いた手法とはまったく別だ。ここでは金子文子が、あるいは朴烈が、ひとりひとりと面会し、顔をつきあわせ言葉を交わすことに集中する。五所さんが書いたように、ここで描かれるのは常に文子と一対一の関係で、両者のあいだにある力関係も明確だ。一方『ボーン・イン・フレイムズ』は、女たちの関係性とその変化こそが映される。敵対する者。志を同じくする者。それぞれがスローガンを叫び、町を歩きまわり、話し合う姿に焦点があてられる。主義を別とするふたりの魅力的なラジオDJがいれば、黒人女性の運動には二の足を踏む白人の新聞記者たち(そのうちの一人を映画監督のキャスリーン・ビグローが演じている)もいる。こうした個々の関係が対話を重ね、ひとつの集団がつくられ、闘争が開始される。その様子はギャング映画やヤクザ映画とよく似ている。そう、これはフェミニズムSF映画であり、テロリズム映画であり、そしてギャング映画でもある。映画のなかで連呼される女軍団(Women Army)は、ニューヨークのギャング団の名前。女軍団の“オジキ”として、実際にフェミニズム活動家であったフローリンス・ケネディが、堂々としたメンター役を披露する。

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Image Courtesy of Lizzie Borden and Anthology Film Archives, New York. Distributed by Cinenova.

ここに登場するのは女だけ。もちろん男も存在するが、その役割は明確に分断されている。巨大なテレビの世界を支配するのは男。女は海賊版ラジオという小さなメディアを牛耳る。仕事をクビになるのは女。男は「俺たちには関係ないし…」と言わんばかりに目をそらして仕事に戻る。新聞メディアでも同じことが起きる。革新的なメディアのはずだが、トップにいるのは男ひとり。その下で3人の女性が働いている。フェミニストの革命家グループを監視し逮捕するのはもちろん男。例外的に味方になってくれる男は存在しない。男も女も関係ないよね同じ人間なんだし、なんて微笑む人もいない。闘うのは女。それを抑圧するのが男。構図は実に明確で、何の留保もつけられない。女軍団のかっこよさは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にもつながりそうだが、シャーリーズ・セロンと平等に友情を結ぶトム・ハーディはここには登場しない。女は正義で、男は不正義でしかない。これは不公平な態度だろうか? あまりに偏りすぎている? でも常に男たちだけが闘う時代劇は? 女は無垢な恋人か娼婦しか登場しないギャング映画は? その時代/その組織には実際男しかいないのだからこれは単に歴史的事実であって何も差別なわけじゃない、という理屈はたしかに正当だ。だからこそ、『ボーン・イン・フレイムズ』は架空の時代を設定する。SF映画という形を借りて、女たちの映画であることを保証する。でも別にSF映画じゃなくたって、現代劇だろうが、時代劇だろうが、闘う女たちが画面を覆ってもかまわないのでは、とも思う。“女性の”という冠をつけなくても、無理に男女を転倒させなくても、もっと自由に、男女の割合を入れ替えてもいいはずだ。実際、架空の時代とされた『ボーン・イン・フレイムズ』のニューヨークの現状は、2019年とまったく違和感なくつながりあう。

イギリス出身の演出家ジョージー・ルークが手がけた歴史映画『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』では、まさにこうした試みが部分的に行われている。16世紀のイングランド宮廷には、アジア人も、黒人も、自由に出入りする。史実から見れば正しくないが、いわゆる多様性を配慮したキャスティング。時代設定を守り、当時の風景やセットを再現する一方で、何の説明もなくこうした逸脱が行われるのはなんだか楽しい。物語は、メアリー・スチュアート(シアーシャ・ローナン)が、フランス王だった夫を亡くし、母国スコットランドへ戻ってくることから始まる。彼女はイングランドの王位継承権も持つが、ひとまずはスコットランドの女王として返り咲き、異母兄と共に国を治めようとする。一方イングランドでは、エリザベスⅠ世(マーゴット・ロビー)が君臨している。常に自分を蹴落とそうとする者の気配に怯えている彼女は、従姉妹のメアリーの帰還を、警戒しながらも表面的には歓迎するそぶりを見せる。

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メアリーは、いわば16世紀のフェミニスト。16世紀の女ギャング。自分のセクシャリティ、性的欲望について隠すことなく語り、男を排除し女だけの小さな軍団を結成する(もちろん女軍団ほどの戦闘力はないとしても)。同性愛者のリッチオも軍団のひとりだ。もちろん女軍団を指揮するといっても、実際の政治や戦闘に参加するのは結局男たちでしかない。だが彼女は男たちに惑わされず、自分の指揮官としての地位を確立する。言い換えれば、彼女は適材適所で部下をうまく使うことに長けているのだ。0歳でスコットランド女王となったメアリーは、結婚も、宗教も、住む場所も、すべて他人によって決められてきた。16歳でフランス王妃となったが、18歳で夫が死に、また人生を失った。もう誰にも私の人生を決めさせない、とメアリーの強い目が訴えている。決断はすべて自ら下す。改宗には応じない。結婚相手は自分で決める。諜報活動だって女軍団の役目。男たちに悪評キャンペーンを敷かれても怯みはしない。悪評は力で蹴散らせばいい。男に支配された国を変えるため、彼女は自分にもっともふさわしい兄弟分を発見する。従姉妹のエリザベス。結婚を拒否し、他国からの干渉を退ける彼女の手腕に目をつけたメアリーは、女である私たちが手を組み、新しい世界をつくろうと呼びかける。もちろん交渉はそう簡単には進まない。それでも構わない。手紙を送り、互いの動向を監視し、時間をかけて互いの妥協点を探っていく。これぞまさに交渉力。

常に不敵さが顔に張り付いた女。それがメアリー・スチュアート。その不敵さでもって、メアリーは、自国に襲いかかる困難を次々に撥ねのける。常に迷い、不安げに顔を震わせているエリザベスとは正反対だ。だからといって、メアリーとエリザベスを、正反対のふたりの女という構図におさめたくはない。美しき若い女と、美しさを失った年上の女。母親になった女と、妻にも母にもならないことを選んだ女。常に不敵で自信たっぷりなクイーンと、どこか不安げで誰かの支えを必要とするクイーン。そんなふうにふたりの女を見比べるのは嫌だ。そもそもこれは、メアリー・スチュアートの物語なのだ。邦題から、メアリーとエリザベスのふたりの女王が主役のように思えるが、原題は「Mary, Queen of Scots」。お仕着せの王妃としての人生を終え、今度は自分が権力を握るために母国へ戻ってきた女が主役。彼女は、自分と同じ女王を名乗る女を見つけてこう問いかける。私は選んだ。私は決断をした。あなたはどうするのか。早く私の手を取りなさい。私たちが共闘すれば、男の声など一蹴できる。

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映画は、どこか歪で、居心地の悪さを湛えている。その正体につい気を取られる。キャスティングから造形まで現代っぽさをふんだんに備えているけれど、必ずしも歴史劇の定型を逸してはいない。でも歴史劇として見ようとすると、妙な軽さが引っかかる。真面目さと不真面目さが混在している。ヨルゴス・ランティモスの『女王陛下のお気に入り』のような突き抜けた作家性はここにはない。けれど、もしこれをギャング映画として見てみたらどうだろう。敵にも味方にもなりうる相手に目をつけ、手を組もうと画策する主人公。忠実な右腕の助けを借りて勢力を伸ばす様は、あの手この手でのし上がるチンピラのよう。周囲が結婚を勧めるレスター卿(ジョー・アルウィン)を拒絶し、ふてぶてしい無礼さに惹かれて野卑なダーンリー卿(ジャック・ロウデン)を夫に選ぶメアリーは、仲間の前で自分を怒鳴りつけた女に惚れた『グッドフェローズ』のレイ・リオッタのようでもある。

どれほど力を持った者だろうと、どれだけ勢力を拡大しようと、一度時機を見誤ればあっという間に失墜する。それもまたギャング映画の掟。ある日突然、身近な者の裏切りに足をすくわれる。メアリーはいったいどこで間違えたのだろう。結婚相手の選択か。自分を裏切った者を許したことか。味方につける者を間違えたのか。そんな間違い探しをすることは無意味だ。これをしたからこうなった、という因果関係などくだらない。何をしようと何もしまいと、崩れるときは崩れる。重要なのはそのタイミングを見極めること。一人、また一人と味方が減り、やがて決定的な瞬間が訪れる。そうしてメアリーは、一発逆転の賭けに出る。

ふたりの女王は、男たちに取り囲まれ、それでも女同士の連帯を模索する。この映画の主人公はメアリー・スチュアートだと書いたけれど、たしかにふたりの女王の物語でもある。あるいは歴史のなかで君臨してきた、これから君臨するだろう幾人もの女王たちの物語。権力をめぐる闘いのなかでは、主人公は次々に入れ替わる。画面の中心がメアリーからエリザベスへ交代するように。同じ服を着て、さあ誰が本物の女王か当てなさいと命じたメアリーは、そのことをとうに知っていた。女王は死なない。メアリーの顔には相変わらず不敵さが張り付いている。

ふたりの女王 メアリーとエリザベス
TOHOシネマズシャンテ、Bunkamura、ル・シネマほか全国ロードショー!