Photography Ronan McKenzie

ヴィクトリア・シン:アジア系女性ドラァグ・クイーン

ジェシカ・ラビットとマレーネ・デートリッヒを足して二で割ったようなドラァグ・クイーンのヴィクトリア・シンが、ドラァグに目覚めるまでの経験を語る。

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26 December 2016, 10:37am

Photography Ronan McKenzie

ラメやつけまつげ、スパンコールの強烈な印象に、わたしたちは「ドラァグがジェンダーの二分化に対する反逆行動なのだ」というのを忘れがちだ。同じく忘れがちなのが、「ドラァグは男が始めたもの」「ドラァグは男がやるもの」という考えが誤りであるということ。一般社会はもちろんのこと、ゲイバーなどでも根強いこの誤解に立ち向かっているのが、トロント出身のドラァグ・アーティスト、ヴィクトリア・シン(Victoria Sin)だ。彼女は、映画『ロジャー・ラビット』に登場する謎のセクシー美女ジェシカ・ラビットと女優マレーネ・デートリッヒを足して二で割ったような、実にユニークなドラァグ・パフォーマンス・アートで世間の注目を浴び、ファン層を拡大している。パフォーマンスで注目を集める一方、ヴィクトリアは活動家としても評価されている。人種問題の研究やクィア理論について誰をも論破できるほどの知識を持ち合わせ、ドラァグを通してメッセージを発信している。「規範的な世界に生きるパフォーマティブな女の子」と自称するヴィクトリアに、ドラァグを通して経験したこと、クィアの空間で人種差別と性差別を当事者として経験した過去について語ってもらった。

ドラァグを試してみようと思ったきっかけについて教えてください。

初めて試してみたのは3年半ほど前、自室のMacでPhoto Boothを使っていたときでした。それからダルストンのクラブ<Vogue Fabrics>でイベントを開催して——それ以前も、隠れてひとりでドラァグを楽しんではいたんです。17歳のときに偽造IDを使って元カノや同僚の男友達とドラァグのショーに忍び込んだりしていました。あの頃は、女性役のシス女子(女性の体に生まれ、自らのジェンダーを女性と自認する女性)として、ゲイ・クラブやバーでは必ずと言っていいほど「Fag hag(おこげ)」と認識されていました。ゲイ女性として、ゲイの空間にいるにもかかわらずです。おこげという存在は「メイン・イベントとしてステージに上がることなど許されないもの」とゲイ・カルチャーにおいては常に認識させられてきたんだと思いますね。そこから18歳でロンドンに出てくるまでは鬱屈とした時間が過ぎていきました。しかし、ロンドンで「ジェンダーファック」のドラァグ・シーンと出会い、ホールスター(Holestar)をはじめとする女性クイーンに出会っことで、私の心は変わりはじめました。ホールスターは、自らのアートを追求して、ドラァグの世界で女性ドラァグを認めてもらおうと叫び続けてきたひと。ドラァグをやりたいという自分の情熱は何ら間違っていないんだと気づかせてくれました。

「ドラァグ」は、あなたにとってどのような意味を持つのでしょうか?

いろんな意味を持ちますね。時と場所を選んで、誇張したフェミニニティ(女性性)をまとって人の注意を強制的に惹き、その空間に君臨するということ。白人男性が最高位にあるとされる世の中で、有色人種女性である自分のような人間がドラァグをやるということは、それだけで「人権の主張」という意味も持っていると思います。

あなたのドラァグを言葉で説明するなら?

回を重ねるごとに進化してきましたね。マリリン・モンローやマレーネ・デートリッヒ、ジェシカ・ラビットといった、西洋で讃えられてきたフェミニニティを混ぜ合わせてパロディ化した存在でもあり、また独自の進化を遂げているひとつの存在でもあります。私が変身するために意図的に構築してかたどったキャラクターであり、また社会が私たちに押し付けるジェンダーや人種といったイメージの境界を取り払ってアイデンティティを特定する方法であり、アイデンティティがどう体に刻み込まれ、演じられているかを探る方法でもあります。

ゲイバーにいる時、女性ということで差別を受けていると感じることはありますか?

カミングアウトしたての頃にゲイバーへ行って、私の友達以外の男たちが私の腰を掴んで腰を振ったり、体に触ったりしてきたのを覚えています。彼らに悪意があったわけではなく、ただゲイ男性が女性にそうすることで、彼らは私たちを楽しませようとしていただけなんですが、そのすべてをとても不快に感じたのは確かでした。それをどう言葉にすれば良いのかもわからなかったですが、今はわかります——彼らが私の体を狙っていたんじゃないことはよく理解しているんですが、私もひととの境界線というものを持った人間で、私の気持ちを無視しての接触には嫌悪感を抱いたわけですね。また、「できるからやった」という無意識レベルでの男尊女卑的な考えも見え隠れして、非常な嫌悪感をおぼえました。最近では、「レズ消えろ」というような発言をゲイ男性から聞いたりしましたね。「話が女性ホルモン全開」「生理とか気持ち悪い」という言葉もよく耳にします。聞き飽きるほどです。世の中は変わっていないんだなと思います。

クィア空間において、人種差別と男性至上主義というのは今でも顕著に見られるものなのでしょうか?

受け入れがたい現実ですが、私のような人間は、たとえゲイバーに入れてもらえたとしても、やはりそこでは外の世界同様、人種差別的で男性至上主義的な価値観を押し付けられます。何を言っても軽くあしらわれ、取り合ってももらえず、子ども扱いをされて、真剣には受け止めてもらえなかったり——これはゲイの空間の内外を問わず、アジア人女性としてどこでも経験してきたことですけれどね。ゲイの出会い系アプリで人種差別が横行しているのは知っているでしょう?「デブ、オネエ、アジア人NG」なんて書いてあるプロフィールがそこら中に見られます。同じことがゲイバーでも起こっているんですよ。有名なゲイバーで、どれだけの有色人種クィア、トランスジェンダー、インターセックスを見たことがありますか?受け入れてもらえない場所に、ひとはわざわざ出向いたりしません。程度は軽いかもしれませんが、暴力すら見られるときがあるんですよ。

クィアの空間におけるそのような差別について、十分な議論がなされていると感じますか?

誰もこれについて触れていないのが現実だと思います。そして男性至上主義やオネエ嫌い、人種差別をじかに経験したものが声をあげなくてはならないという現実は、当事者にとって相当の重圧です。想像してみてください——あなたが黒人女性で、ゲイバーに行ったらそこには白人のドラァグ・クイーンが顔を黒く塗り、労働者階級出身の黒人女性をパロディ化したパフォーマンスをしていて、大勢の白人男性がフロアで大笑いしていたら。これは実際にあったことです。それを実際に経験したシャーディーン・テイラー=ストーン(Chardine Taylor-Stone)という女性が署名を集めて抗議し、そのパフォーマンスは上演禁止になったんですが、そんなパフォーマンスはステージで演じられる前に誰かが「それはよくない」と止めるべきで、それ以前にそれが誰かの気分を著しく害すると想像がつく類いのものです。署名がなければ禁止にならなかったのかという点も不愉快ですね。今は2016年ですよ。観客のだれひとりとして「白人が顔を黒く塗って」という部分を問題と感じなかったなんてありえません。プロモーターやブッキング担当、バーのスタッフ、そしてドラァグ・クイーン自身、そういったある程度の権力を持った人間が、なぜ気づけなかったのか。もしくは、観客の誰かが、あれを見て「ちょっと待って。僕たちは、僕たちのクィア・コミュニティの中でももっとも矮小化されている人々をパロディにして笑っているの?こんなの外の世界で平然と行なわれてきた暴力とかわらなくない?どうしてこれが面白いと感じるんだろう?僕たちは誰のことを笑っているんだろう?」となぜ言えなかったのでしょうか。

女性ドラァグを「文化盗用だ」などという声は今でも聞かれるのでしょうか?

私がネットで公開している映像のコメントには、そういう声がいまだに見られますよ。それで浮き彫りになるのは、まず「女性はゲイ・カルチャーの一部ではない」と信じているひとたちの存在。そして、女性がゲイ・カルチャーやその歴史で果たしてきた役割がまったく評価されていないということです。それともうひとつ、フェミニニティを誇張したパフォーマンスが男性を起源としたアートだと信じているひとが多いということ(事実無根です)、そして、だからこそドラァグは男性のものだという考えです(ナンセンスも甚だしい)。ちなみに、今やメインストリームになった感のあるドラァグですが、ドラァグとはもともとアフリカ系やラテン系のパフォーマーやトランスジェンダーたちが始めたもので、白人から始まったものではありません。にもかかわらず、世界の多くの人たちが、ドラァグを白人シス男性文化からの盗用で広まったものと考えているのが現実です。

ドラァグに懐疑的な人は、自らドラァグを試してみるべきだと思いますか?

日常の中でジェンダーに関係して経験することを広く語るため、ジェンダーに関係する経験から生まれるトラウマを自分の中で処理していくため、またジェンダーを表現し、特定していくための方法として、ドラァグは誰もが利用できるツールだと思っています。やりたくなければやらなければいいだけの話です。誰もがやるべきだとは考えていません。でも、私の元には、たくさんの若い女性や二分されたジェンダーではくくれない性の人たちから、「ドラァグをやってみたいけど、どうやったらいいのかわからない」というメールが届くんです。彼女たちがそう感じる根源には、彼女たちがもっともアクセスしやすいドラァグ会場が男性主導のスペースであるということ、そしてそういった場所に「ドラァグとは何か」「ドラァグとは誰がやるものか」という点について従来の古い考えが根付いているという現実があるんです。

彼女たちへのアドバイスは?

やりたいと思うのであれば、既存のドラァグ界の人々が誘ってくれるのを待っていたりせず、やってしまいなさい、ということです。どんな方法でも、まずはやってみる——オープンなクィア・スペースを探したり、例えばネットで写真を公開するなど、自分が絶対に安全だと感じられる空間で、自分のペースでやってみたり。考えを共有できる友達を見つけて、アプローチしてみる。勇気を出して、彼女たちと外に出かけてみる。イベントを自分たちで立ち上げるという方法もありますね。この1年ほど、外に出るようになって気づいたのは、これまで表立って語られてこなかったクィア体験を表現するスペースとドラァグが、本当は渇望されているということ。いま重要なのは、みんなで力を合わせてコミュニティをつくり、私たちが見たいと思えるようなドラァグに、私たち自身がなること。いま私たちを悩ませる権力構造をLGBTQIの世界に持ち込ませず、それを問い、打ち崩すようなドラァグになりましょう。

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Credits


Text Jake Hall
Images via Instagram
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.