『15時17分、パリ行き』作品評

クリント・イーストウッド監督最新作は、2015年にパリで起こった無差別テロ襲撃事件を基にした意欲作。『15時17分、パリ行き』の中でイーストウッドが試みた挑戦とは? 〈テロの時代〉のアメリカ映画という難問に正面から立ち向かった本作から、現代の英雄像に迫る。

by Shinsuke Ohdera
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28 February 2018, 7:53am

〈海外メディアの反応と日本でのイーストウッド熱〉

クリント・イーストウッド監督最新作『15時17分、パリ行き』は、実に奇妙な実験作である。日本封切に一ヶ月ほど先行した全米公開前後から海外では多数のレビューが並んだが、その多くがこの見解において一致している。そして、本作はその野心にも関わらず、映画としては失敗作だとみなす判断においても、海外レビューはほぼ足並みを揃えていると言うべきだ。だが、実験はその試みが本来属す文脈においてこそ、その意義や成否を判断されるべきではないか。海外レビューの多くは、彼らがイーストウッド作品に期待するジャンル映画や娯楽映画としての要件を満たしていないという一点を中心に本作を批判しているように見える。それはかつて、大衆の嗜好に寄り添うだけのB級映画監督として、イーストウッド監督作品を彼らが不当に冷遇してきた事実のちょうど裏返しのようにも見える。

イーストウッドが監督に進出したのは、1971年の『恐怖のメロディ』からだ。しかし、その重要性が初期から認識されていたのは、むしろ日本の映画批評界においてのみだったと言うべきだろう。一部の擁護を除き、彼の作品は欧米映画批評界において不当な低評価に甘んじてきた。フランスで本格的に評価され始めたのは、カンヌ国際映画祭に出品された『ペイルライダー』(1985)や『バード』(1988)からであり、先にヨーロッパから評価されてしまった映画作家イーストウッドをハリウッドが一級映画作家として受け入れるのは、1992年『許されざる者』を待たねばならなかった(アカデミー賞は先にカンヌなどで受賞したアメリカ映画作家をしばしば冷遇することで知られる)。

だが、なぜ日本はこれほど熱心にイーストウッドを愛してきたのだろう。それは、俳優クリント・イーストウッド演じるキャラクターがしばしば寡黙な受動性を表象し、他者の視線や欲望、攻撃を一方的に受け止める存在であったのと同様に、彼の監督作品もまた、他者からの一方的な読解と解釈を受け止めるだけの存在であるからだ。イーストウッド監督作品は、俳優としての彼のイメージと同様、他者からの視線に晒され続ける寡黙な特権的身体であり、それは見る者の不安や嫌悪や好奇心をそのまま反映し、転移の対象ともなる。欧米映画批評界においては、自らの内なる暴力やファシズムへの不安が彼の監督作品へと転移され、その不当な冷遇につながったとするならば、逆に見る者によっていかようにも解釈を反転させうるその頑固な曖昧さにおいて、彼の映画はアメリカ映画そのもの、あるいは映画そのものの身体とさえ日本では同一化されていった。イーストウッドがゴダールと並んで実にしばしば文学誌の特集として取り上げられるのは、こうした理由に基づいている。単純に言って、イーストウッドは日本固有の批評風土にピッタリの分析対象だったのだ。

©︎2018 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited, RatPac-Dune Entertainment LLC

〈『15時17分、パリ行き』の挑戦〉

では、『15時17分、パリ行き』でイーストウッドが試みた実験とは何だろう。題材となったアムステルダム発パリ行き高速列車タリスでの2015年のテロ事件は、無名の兵士たちや民間人の勇気と協力が凄惨な大量虐殺を未然に防いだ感動的実話として世界中に伝えられ、広く知られている。映画の題材として、そこに特別奇異なものは見当たらない。『アメリカン・スナイパー』(2014)や『ハドソン川の奇跡』(2016)などでアメリカの典型的英雄譚を語り直す近年のイーストウッド作品の系譜から見ても、むしろ正統な直系に当たると言えよう。そして、被害を最小限に食い止めた英雄たちの生い立ちをバックストーリーとして列車での事件進行と平行して描いていく語り口も、むしろありふれたものであるだろう。だが、その英雄たちを本物の英雄たち自身、すなわちスペンサー・ストーンとアレク・スカラトス、アンソニー・サドラーという3人の仲間たち自身によって演じさせた映画製作上の判断はどうか。確かに、この映画が観客に感じさせる奇妙さの中心はそこから発しているようにも見える。何より、職業俳優ではない彼らの台詞回しや演技のぎこちなさは、さりげないプロフェッショナリズムに貫かれたイーストウッド映画の中できわめて異彩を放っている。彼らの存在はフィクション映画の完結した世界を充足させず、一方、ドキュメンタリー的な被写体としてそこにいるわけでもない。そう、ここには確かに実験がある。だが、こうした試みそのものに前例がないわけではない。例えば、1955年のアメリカ映画『地獄の戦線』がそうだ。

『地獄の戦線』は、第二次世界大戦の英雄オーディ・マーフィーの自伝に基づく戦争映画であり、その英雄をマーフィー自身が演じている。卓越した戦功により最高位の名誉勲章を受勲した後に負傷退役した彼は、そのスターとしての素質を感じたジェームズ・キャグニーによってハリウッドに招かれ、ジョン・ヒューストンの『勇者の赤いバッヂ』(1950)などに出演した。しかし、自らの自伝に基づくこの実録戦争映画への出演に、彼は最後まできわめて消極的だったと言われる。実際、たった一人でドイツ軍戦車部隊を鎮圧したまるで嘘のようなマーフィーの英雄的活躍を、そのマーフィー自身がヒロイックに演じている姿をスクリーンで見つめるのは、どこか奇妙な違和感を私たちに感じさせるものだ。だが、彼の演技のぎこちなさや全編を覆う居心地の悪さにも関わらず、映画は大成功を収める。当時においてユニバーサルスタジオ設立史上最高の興行記録を打ち立てたほど、この作品は大ヒットしたのだ。

子役が演じる少年オーディ・マーフィーの生い立ちの描写に始まり、名誉勲章の晴れやかな場面で終わる『地獄の戦線』は、その構成において『15時17分、パリ行き』と深く通じる部分がある(わずか5歳しか年齢差のないイーストウッドとマーフィーは、何度か奇妙な形でそのキャリアを交錯させている(例えばイーストウッドの二度目の出世作となった『ダーティハリー』の残忍な殺人犯スコルピオには、当初マーフィーがキャスティングされていた)。しかし、「正しい資質」を持ちながら貧困ゆえに正規の教育を断念した少年マーフィーが、アメリカ軍という教育機関に育まれ優れた兵士へと成長していく姿を描いたこの作品は、その内容のみならず形式においても同じ試みを通底させている。すなわち、正規のレッスンを受けていない俳優オーディ・マーフィーを、アメリカ映画という教育機関を通じて優秀なハリウッドスターへと成長させようとする試みこそが、『地獄の戦線』という作品のもう一つの主題であるのだ。私たちがこの作品で目撃するのは、一人の戦争英雄をアメリカ映画が自らの虚構世界の内部で力強く抱擁する姿である。そしてこの抱擁を裏打ちするものは、アメリカ映画が表象する価値観への揺るぎない信頼であるだろう。アメリカ映画は英雄を描くことが可能であり、それは本物の英雄的行動と同じ価値、あるいはそれ以上の共感を伴って世界中で上映され、アメリカの理念を伝播させていく。その美徳への絶対的信頼が作り手と観客の双方に共有されているからこそ、この作品は強く効力を発揮したのだ。逆に言えば、マーフィー本人を除いて、英雄が英雄譚に収まる姿をアメリカ映画として語ることへの疑問や違和感が『地獄の戦線』には本質的に存在していない。

©︎ 2018 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited, RatPac-Dune Entertainment LLC
©︎ 2018 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited, RatPac-Dune Entertainment LLC

〈英雄を求めるアメリカ映画〉

こうした『地獄の戦線』の特質と比較することで、『15時17分、パリ行き』におけるイーストウッドの際だった映画的実験の意味が私たちに明らかとなる。すなわち彼は、少なくともこの作品において、ある特権的存在として物語の中心を支える英雄が悪を打ち負かし、世界に秩序を取り戻すというアメリカ映画の黄金律を全く信じていない。いや、この作品が語るのは、伝統的なヒーローたちの物語ではないかと言われるかもしれない。だが、問題はそこではない。イーストウッドが信じていないのは、特権的身体を備えた英雄の存在、あるいはそうした英雄のイメージを繰り返し語り続けてきたアメリカ映画のシステムなのだ。なぜだろう。答えは簡単である。『15時17分、パリ行き』は、監督イーストウッドが俳優イーストウッドの存在抜きに作った作品であり、自らの代行者や後継者探しではなく、イーストウッドの存在しない世界という困難な問題に彼が正面から向き合って撮りあげた作品であるからだ。

イーストウッドの存在しない世界、それはすなわち、私たちが生きるテロの時代、現代そのもののことだ。周知の通り、現代のテロリズムとは古典的情報伝達経路や軍隊的組織とは全く異なった形で伝播され実行される。全く異なる国の異なる政情を背景に語られた言葉や感情が、遠く離れた一切つながりを持たない人間の中に奇妙なエコーを形成し、社会に対する不満や鬱屈、怒りを吸収し膨張したあげく、ネット上で収集できる様々な情報や技術と手を携え生み落とされるのが、現代のテロリストなのだ。これは、ハリウッドが描いてきた古典的な悪の表象とは全く異なるものだろう。そして、悪が変質した以上、英雄もまた変質せざるを得ない。古典的な悪が君臨しない世界には、イーストウッドのような特権的身体を備えた英雄もまた存在する余地がないからだ(『タイトロープ』に代表される一時期のイーストウッドは、正義と悪の鏡像的関係を描くことに執着していた。アメリカ映画の物語システムにおいて両者の存在はコインの裏表であるのだ)。イーストウッドの存在しないテロの時代の厄災に対して、私たちはイーストウッド抜きに立ち向かわなければならない。そしてその問題を誰よりも真剣に考えているのが、『15時17分、パリ行き』を撮った映画作家クリント・イーストウッドその人であるのだ。

©︎ 2018 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited, RatPac-Dune Entertainment LLC

〈テロ時代の英雄はどこに?〉

現代に英雄は存在するだろうか。いや、実際にそれは存在するはずだ。『15時17分、パリ行き』で描かれた3人のアメリカ人は、まさしく現実世界の英雄であっただろう。であるならば、アメリカ映画は彼らから何を学べるだろうか。彼らと共にどんな新しい映画の形式を生み出すことができるだろうか。テロの時代の英雄とはどのような存在だろう。そして映画は、どのように現代の英雄の物語を語ることができるだろう。かつて寡黙な特権的身体そのものとして私たちの解釈や疑問を一方的に喚起し続けてきたイーストウッドは、ここでは逆に、特権的英雄の存在し得ない現代という時代の中で、あらかじめ正解が用意されていない困難な問いを世界に向けて投げかける側の存在となっている。実際、作品で描かれる少年時代の3人のエピソードは、彼らが英雄的行動を成し遂げた理由としては全く成立していない。
例えば、学校や軍隊などのシステムの中でマイナーな存在であった彼らが、後にテロリストになったという真逆の物語さえ、ここから十分に語ることができるほどだ。イタリアやオランダを観光して回る3人の楽しげな映像もまた、私たちに彼らの英雄としての資質や成功の条件を説得するいささかの根拠も示さないだろう。3人の若者たち自身、自らが英雄となった必然性は全く存在しないとインタビューで語っている。イーストウッドもまたそれに同意する。だが、それは一体英雄なのだろうか。あるいは、映画が語る英雄の物語なのだろうか。

言い換えるならば、イーストウッドはここで3人の英雄たちをアメリカ映画の虚構世界、その物語システムの中で抱擁していない。むしろ、実際の列車や駅、そして現実に事件を経験した人々を可能なかぎり作品に取り込もうとした事実に示される通り、この映画はテロの舞台となり数人の英雄を生み出した現実世界の側、つまりアメリカ映画の外側にむしろ積極的に歩み出ようとしているのだ。しかもそれは、ドキュメンタリーの眼差しによってではない。これまで典型的なジャンル映画、アメリカ映画を作り続けてきたイーストウッドが、自らの手の内にあるアメリカ映画の手法と技術そのままに現実世界、そしてテロの時代の側へと歩み出そうとすること、それこそがこの作品における彼の最大の野心であり、無謀な実験であったのだ。イーストウッドは、この試みに勝利しただろうか。それは見る者それぞれの判断に委ねられるだろう。しかし、少なくともその試みは、常にシステムの外側にいた3人の若者たちを(アメリカ映画のシステム内部に回収せず)描くのに最も誠実な試みであるとは言えるだろう。そしてまた、この作品の延長上に存在するイーストウッドの未来のプロジェクトを私は見たいと思う。イーストウッドには、その困難な未来を切り開く力が備わっていると信じているからだ。彼が自ら設立した映画製作プロダクションの名前である〈マルパソ〉とは、スペイン語で険しい道を意味する言葉であり、成功するにせよ失敗するにせよ、その全責任を自ら引き受けることこそがイーストウッドのモットーなのだ。

15時17分、パリ行き』3月1日(木)丸の内ピカデリー、新宿ピカデリー他 全国ロードショー

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