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映画の平行線 第6回:『つかのまの愛人』『追想』

五所純子と月永理絵が、毎月公開される新作映画を交互に語り合っていく本連載。今回は、イアン・マキューアンの小説を映画化した『追想』、そしてフィリップ・ガレルの最新作『つかのまの愛人』について。

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aug 28 2018, 3:34am

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライターと文筆家が意見交換していく往復コラムです。


あなたの性の指南書はなに? セックスをどうやって学んだ? テレビや映画のラブシーン、兄が隠し持っていたエロマンガ、同級生のあいだで回覧されたエロビデオ、ネットに転がるエロ動画、柱に電車に看板に街じゅうに貼りつけられたポルノグラフィ、どこを向いても性的なイメージに溢れて教材には事欠かない。でも、こんなはずじゃなかった。セックスの模範解答なんてわからない。けれどいまわたしが知っているセックスはなにかが間違っている。それだけはわかる。

雷に打たれたように目が覚めたわけではない。違和感はゆっくりと波のように寄せては返して侵食した。はじめて人間の交接が目に飛び込んできた日から、視界に入るすべてのセックスを疑っていた気がする。とても無防備ではいられない。これは性への初原的なおそれではない。むしろ若々しい好奇心の範疇には他の物事とともに性もあった。なかでもセックスをとりわけ警戒したのはたぶん、わたしが女性だったから。なぜ女ばかり裸になるのか、なぜ女ばかり組み敷かれて悲鳴をあげるのか、なぜ女ばかり明らかに嘘だとわかる言葉を言うのか、なぜ女性器ばかり集中的に攻撃されるのか、なぜ女体はばらばらに切り取られて流布されるのか、なぜ女性像はぺちゃんこに潰されて美化されるのか。偏屈な女であるわたしはこれに恐怖を感じながら、従順な女であるわたしはこれを学習しなければ真人間と認められないと悟った。これがセックスというものか。まさか。パソコンが普及しYouTubeが出まわったとき、わたしは動物の交尾映像を見漁った。セックスをするのが動物の本能だなどというのなら、人間だっていまとは異なるかたちでおこなえるのではないか。人間が忘れ去ったかたちがどこかにあるのではないか。そう思ったから。ヤスデとビワアンコウの交尾がわたしは好きだ。

『追想』のシアーシャ・ローナン演じるフローレンスは性の指南書を手にして読みふける。保守的な家庭に育ち、娘の進路や思想傾向だけでなく恋愛関係をも見張ろうとする母と、ふいに不機嫌におちいっては場を支配する父のもと、フローレンスは生真面目で品行方正な子女に育った。エドワードと出会い、階級違いの結婚に難色を示す両親を説きふせたものの、性が障壁として立ちふさがる。フローレンスはセックスの致し方を知らない。彼女の生育環境には性の気配が消されていたから。だから本を読む。そんな卑猥な本を読むなんて両親に咎められるのではと慌てる妹とうらはらに、姉のフローレンスは恐れを知らず読みふける。知識を得る。知識を身につけることで結婚生活をきちんと営もうとする。彼女は向学心旺盛で吸収力も高い。知識は彼女を鍛え、いざ準備は整った。しかし実践は厳しい。新婚旅行のホテルでふたりベッドに体を横たえてみると、活字でおぼえたとおりに事が運んでくれない。女が快楽を感じるはずだと本に書いてあった場面でフローレンスは快楽を感じず、男に愛があればとる行動だと本に書いてあった場面でエドワードは行動をとらない。観客が見るのは双方を思いやり真剣に取り組むふたりなのに、フローレンスが感じているのは失敗と挫折、さらに屈辱ですらあるのだ。

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『追想』は、生活になじむために教義を手にした人が、それを真に受けたために現実に打ち破れる話だ。冗談が通じない。字義どおりに受けすぎる。真に受けすぎ。考えすぎ。わたしは幼いころによく言われたが、言葉の意味を文字どおりに受け取ることや考えることに過ぎるがあるなんて思いもよらなかった。チャック・ベリーを陽気で弾んでいると真顔で評するバイオリニストのフローレンスもおそらくそのような人で、あるいは先月次から次へと13人が絞首刑にされた地下鉄サリン事件の死刑囚たちのひたむきな側面も思い出す。バブル経済の好景気で軽佻浮薄が美徳だった時代に、その風潮になじめず、別の価値をもとめて教義を読みこんだ彼ら彼女たち。やがて大量殺戮に走った集団の罪過ははなはだしいが、かといって前代未聞の連続死刑執行が国家による大量虐殺でなく何だろう。彼らの横顔を見る前に息の根が止められてしまった。フローレンスの横顔に浮かぶ挫折感を若気の至りとは呼べるのは、そののちも彼女の人生が続くということに安堵できる者だけだ。

そう、フローレンスは死なない。『追想』は溝口健二『雪夫人絵図』(1950)の姉妹作にちがいない。自死してしまった雪夫人に『追想』を見せたかった。フローレンスも雪もいわゆる不感症として描かれる。フローレンスは愛する相手とのセックスに快感がない。雪も同様に愛する恋人に性的刺激をおぼえず、さらに愛していない夫に性的快楽をもよおすという二重性がほどこされている。不感症の女という設定は映画に謎解きと濡れ場をあたえる。なぜ彼女は不感症になったかというミステリーの物語を駆動することができる。増村保造の『音楽』(1972、三島由紀夫原作)が好例だ。また、彼女が不感症であることを観客に証明する、あるいは不感症を乗り越えるためのセックスシーンを用意することができる。こうして映画は不感症という設定によって女を裸にし暴露し開発する口実を積み上げてきたわけだが、もとより不感症という言葉がおもに女性を指すという構造的な不均衡が映画にも起きている。そういえば映画版『戦争と一人の女』(2013、井上淳一監督、坂口安吾原作)では、不感症の女が空襲の激化とともに性的快感を取り戻していたが、より気になったのは男女のつがいが陰部を天日にさらして温める光景だった。陰部が映されるのは女のみで、男の下半身はフレームアウトする。陰茎を映してモザイクがかかることを避けたという制度面での判断かもしれず(陰唇は陰毛によって露わにはなっていない)、この不均衡によって本来このシーンが生じさせるはずの解放感が損なわれていた。

フローレンスと雪はことさらに脱がされることなく、不感症の原因はとくに探求されない。(いや正確に言えば、フローレンスには瞬間的なフラッシュバックがある。そこに父が映ったことから近親相姦的なトラウマを読み解きそうになるのだが、これこそポルノグラフィに冒された邪推として捨象し、父はあくまで抑圧の象徴にとどめたい。でもだったらなぜ母が出てこないのか。厭な後味を残すフラッシュバックで、まさしく見なかったふりをしたいのだが)。フローレンスと雪の葛藤はあくまで心と体が相反するところに生じ、性的快感をおぼえないこと自体が苦しまれるのではない。不感症の女とは、本音と建前、精神と生活、真の人生と偽の人生といった、人間の普遍的な葛藤を描きだす装置だったのだ。不感症は女への不幸の烙印ではない。

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彼女たちは水辺にいる。『追想』『雪夫人絵図』ともに水のロケーションがすばらしい。雪は芦ノ湖をひとりでさまよい、フローレンスはチェジル・ビーチにふたりで向き合う。雪のいる熱海のその高低差のある地形はそのままドラマの上下運動に重なり、人物間の力関係の起伏として映る。そして雪は水に沈んでいった。いっぽうの『追想』はどこまでもなだらかに水平的に伸びていく。線路も緑のコートも五つの譜面台も、ディナーのテーブルも家庭の食卓も、ホテルのベッドも、ふたりが抱き合う姿態も、水平線が伸びゆくような構図でとらえられる。月永さんが書いていたとおり、この夫婦は若く公平であろうとし、ふたりが向き合う海岸を脇から歪めようとするありがちな年長者は登場しない。この海岸がじつに不思議な地形をしていて、おそらく長い時間をかけて海岸線が移動したのだろう。片側を海に、もう片側を浅瀬に、水に挟まれた緩衝地帯のような、誰にも統治されないノーマンズランドのような海岸なのだ。そこでふたりは決裂する。この決裂こそふたりの幸福の証として、水に守られ海岸に保存される。

チェジル・ビーチは砂でなく小石でできた海岸だそうだ。きゅっきゅと足を締めつける砂浜とちがい、小石はざくざくと足を取りながら歩調を乱すことだろう。ところで砂漠のような大地をぐるぐると円環状に歩いていたのはニコだった。あるいは、馬に乗ったニコが火の輪に囲まれ、それを円の外から子どもが眺めている映像。果てしない砂地をどこまでもガレルに先導されてニコが引きずるように歩く映像。フィリップ・ガレルとニコがつくった『内なる傷痕』(1979)は最果ての映像詩だ。
初心にかえって言えば、『秘密の子供』(1979)、『自由、夜』(1984)、『ギターはもう聞こえない』(1991)、『愛の誕生』(1993)などを見た20年前、これほどさりげなく男女を同等に描く感受性があるのかと静かに驚愕したのがガレル映画だった。その感性は最新作『つかのまの愛人』(2017)でも造形的な面で受け継がれており、たとえば男女が上半身を露わにしたままベッドに寝転んでいる光景がある。そこには膨らんだ乳房と平らな胸板が並んでいる。通常わたしたちは乳房と胸板を等しいレベルでとらえることができない。同じ体の部位であっても、乳房は性的なものだという意識に囚われているからだ。ガレルにはこの囚われがない。それは性差のみならず、出自や階級、あるいは疾病や貧苦といった負的な要因も偏りなく映される。アリアーヌの顔を思い浮かべながら書くと(顔の接写をテーマに1回分書けそうだ)、「逆にそばかすこそ綺麗だ」と美的基準の転倒を起こすのではなく、「単にそばかすが綺麗だ」と美的価値をそこに認めさせる。驚くべき自由な地平がある。

作劇的な面でガレルの近作は大きな変化を見せている。特に『ジェラシー』(2013)、『パリ、恋人たちの影』(2015)、『つかのまの愛人』の3部作はいちじるしい。かつてガレルの作品では、言葉は人物にまつわるイメージを支えることがあっても、台詞がドラマの推進力になることはさほどなかったと記憶する。ところが近作は会話が劇になっている。そのため人物間の構図が見て取りやすく、人物はその構図のなかで立体感を増した。それがより女性に顕著なのは、脚本の編成が大きく影響しているだろう。『つかのまの愛人』の脚本はガレルを含めた男女2人ずつの4人編成でつくられている。多角的に検討されることで女性たちが現実味を帯びたのだ。ニコの地鳴りのような声やジーン・セバーグの薄暗い影が遠のいた。

よく知られているとおり、ガレルの作品群には自伝的な背景が色濃く、ニコやセバーグをはじめとする女性たちの存在は大きい(女の幽霊がくっきりと飛び出す『パリ、恋人たちの影』の原題は「L’ombre des femmes」、直訳すれば「女たちの影」だ)。われながら不思議だが、自伝的要素が薄まり、より着実に作劇的であろうとする近作のほうに若々しい手つきを感じ、自伝的要素が濃く、実験的な感触の強いかつてのほうに達観を感じる。さらにそのスキャンダル的側面が名実ともに消えかかるにつれ、息子のルイや娘のエステールがフィリップ・ガレルに酷似した姿でフレーム内に現れるという転倒も生じている。これまでも親と子がぞんぶんに主題にあったが、いよいよ家族映画である。ガレルの喪が明けると同時に、世代交代のようなものが起きているのかもしれない。

『つかのまの愛人』は父ジルとその恋人アリアーヌ、ジルの娘ジャンヌの三角関係が描かれる。フロイト3部作の最終話と銘打たれた本作は、こんなに明け透けでいいのかと気を揉むほどフロイトに依り、女性の無意識下に抑圧された欲望を引きずり出すというコンセプトをもつ。冒頭から、アリアーヌは喘ぎ声で切り裂き、ジャンヌは嗚咽を轟かせる。剥き出しで高ぶる女性たちはガレル映画には珍しい。喘ぎ声はポルノ写真と、嗚咽は自殺未遂とセットにされ、超訳エロスとタナトスといった感じでアリアーヌとジャンヌは対置される。さらに本作は女人劇エディプスコンプレックス、娘が継母を追放する物語である。ふたりの女性は男を挟んで娘と恋人の好対照として出会い、やがて同い年の姉妹のように睦み合い、ついには父娘を残して女が去っていく。親子/恋人、姉妹/男、父娘/女という推移のなかで、わたしは姉妹の季節にいたい。黒い窓枠から女を引きずり戻して露わになる白い太腿も、無名の男たちのなかで連句のように対句のように踊るふたりの女の横顔も、美しさはだいたい姉妹の季節にあった。ここにフロイトはいない。

ダンスシーンを見ながらもう死んでもいいかなと思わされたが、あれは3部作の音楽を担当するジャン=ルイ・オベールがミシェル・ウエルベックの詩を歌った曲だとおしえてもらった。この歌の語りがもっとも生々しかった。

つかのまの愛人
8月18日(土)~8月31日(金)シネマヴェーラ渋谷にて限定ロードショー

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