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映画の平行線 第4回:『正しい日 間違った日』『クレアのカメラ』

映画にまつわる本連載。月永理絵と五所純子が、毎月公開される新作映画を交互に語り合っていきます。今回はホン・サンス監督の映画と、そこに流れる固有の時間感覚について。

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jul 17 2018, 2:31pm

女の出てこない映画はない。けれど女はまだ語り尽くしていない。 “映画の女” を見ながら感じたアレコレを、お喋りのように、戯れ言のように、手紙のように、交わしてみたい。「映画の平行線」は最新映画とともに、映画ライターと文筆家が意見交換していく往復コラムです。


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現在 過去 未来 あの人に逢ったなら 私はいつまでも待ってると 誰か伝えて まるで喜劇じゃないの ひとりでいい気になって さめかけたあの人に 意地を張ってたなんて ひとつ曲り角 ひとつまちがえて 迷い道くねくね——渡辺真知子「迷い道」のナンバーをお送りしました。この曲を聴いたときにどんな絵を想像するかと友人たちと話したことがある。ある人は山道を思い描くと言った。うねうねと曲りくねった道を歩いて、ここまで来るのに分岐点がいくつかあった。嵐に遭ってしまったいま、行くも地獄、帰るも地獄で、道も標識もわからず濡れている。またある人は知らない町にいると言った。そこは区画が整った町で、右折に九十度、左折に九十度、直進するのに百八十度、まるで行進のように整然と歩いてきたのだけれど、気づけば一緒に歩いてきた人が消えている。どこをどう曲がったのか無頓着だった友人は、ぽつんと立ち尽くしているそうだ。わたしには遊園地の巨大迷路が浮かぶ。三十分前に歩いた道と、いまいる地点と、ひょっとしたら出口までもが、実は薄い壁を隔てただけで隣り合っている。なのにわたしはそのことに気づかない。さっき通った道を初めて見るみたいに進んだり、まだ踏んでいない道に既視感をおぼえながら歩いたり。鳥が頭上を飛ぶ。鳥たちから見れば、過去のわたしも現在のわたしも未来のわたしも、ひとつまとまった空間で息巻いているにすぎない。

ホン・サンスの作品は壁をとっぱらった迷路みたいだ。現在・過去・未来がおなじ時空間にあって、それが散在する状態をひろげていく。

『正しい日 間違えた日』© 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

わたしの場合は『ハハハ』(2010)が初めて触れたホン・サンス作品で、東アジア圏でヌーヴェルバーグがさらりと実現された驚きに目を奪われたものだけど、ふりかえると時間的態度の洗練にこそ快適に感じたのだとも思う。それまで見ていた韓国映画といえば、悩ましい人びとが肉体的にぶつかり合い、怒号と慟哭によって過去を克服し和解をめざしていた。わたしは恩讐の強い文化圏にいるのだと、北部九州で育ったわたしなどはむしろ韓国映画の手触りに体じゅうの毛穴が閉じていくような郷愁をおぼえ、はやくそれを乗り越えたいという思いを募らせていたものだが、ホン・サンスはあっけなく乗り越えた。『ハハハ』で二人の男が酒を酌み交わしながら交互にくりだす回想の、その湿度の低さが好ましかった。それぞれ記憶のなかの登場人物は部分的に重なり、たがいの恋愛模様に影響を及ぼし合ったのに、二人はそのことに気づかず済んだ話として盃を重ねる。ホン・サンスの男たちが見せるセンチメントにはときどきびっくりするけれど(そのモチーフの究極にも、ホン・サンスの居直りのようにも見える壮年男性の泣き姿が『それから』(2017)にある。いわゆる不倫愛の渦中でけたたましく泣き崩れる男で、わたしが本作を観た試写室では男声の笑いが起こりダメ男を自嘲的に慰めるムードがあったが、文化史的に「泣き女」と対置してみたい気がする。ちなみに前回に月永理絵さんが「ホン・サンス映画をどう受け止めていいのか、実のところよくわからない」と書いたのは、吐露のかたちをとった牽制だとわたしは思っている。試写室に響いた男声への追従笑いを自分はしないという、穏便な意思表示だろう)、情けや恨みで結ぶことなく淡々と提示される過去と現在の関係はいまもフレッシュだ。

『三人のアンヌ』(2012)では、イザベル・ユペールが三人の女を演じ分け、あたかも三つの世界がひとつの時空間で展開しているような錯覚を引き起こした。パラレルワールドのように分岐した並行世界があるのではない。同一の次元で複数の世界が重なりながら成立しているという、奇妙な状態があった。

先頃公開された『正しい日 間違えた日』(2015)は、ある男女の一日が二通り描かれる。しだいに気まずさを増していく日が前半に、なんとなく打ち解けていく日が後半にと、対称性のものとして作品ははっきりと二つに分けられており、後半に向ける目はおのずと前半との差異を見つけようとする。ところが差異はどれも微細なもので、居合わせた観光客が別人だったり、ちょっとした言葉遣いや語尾のトーン、会話の流れ、絵を見る角度が違うだけで、どれも男女のその後を決定づけた分岐点とは言いがたい。物語というものは分岐点を刻印することで劇的な効果を上げるが、『正しい日 間違えた日』はドラマティックでもなければ分岐点もない。それなのに男女の一日はまるで異なる様相をあらわすのだから、つまりはこういうことだ。分岐点はそれと見分けがつかないほど世界にまんべんなく広がっている。『正しい日 間違えた日』はその証明のために捧げられる。

『正しい日 間違えた日』© 2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

つまらない話だが、20年前に『ラン・ローラ・ラン』(1998)を見て呆気にとられたのを思い出した。あれは『正しい日 間違えた日』の対極にある作品だった。主人公ローラが窮状を潜り抜ける三つパターンを描いた作品で、一度目で失敗したローラは二度三度とスタートからやり直しさせられる。シナリオはノベルゲームのように分岐点がわかりやすく設定されており、ローラは前回と異なる分岐を辿ることでゴールに近づく。ただしローラは前回の記憶を引き継いではいない。したがって観客はローラのトライではなく、第三者のプレイヤーによるキャラクターの操作を見ているようなものだ。ローラにリスタートの意識がないのだから「人生はやり直しがきく」とか「三度目の正直」とかいう教訓譚ではないし、あからさまに失敗と成功を分ける描写には「人生の一回性」といった美意識はまるでない。あるいはトライを重ねるにつれてシナリオが自暴自棄になっていくような展開が映画の自己言及だったのかもしれないが、せいぜい「分岐を間違えたら最悪だ」という貧祖な人生観は伝わった。あれは世知辛い体験だった。もしやゲーム実況の先駆だったのかとも思う。

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ホン・サンスの時間のセンスをいま健やかに感じる。過去から現在へ、現在から未来へと、時間は単線的に進むもので、けっして逆戻りしない。人は通常このように考えており、したがって現在にトラブルを抱えたとき、その原因を過去のなかに探りあて、過去を検証し、現在を実践し、未来を建設しようとする。いわば分岐点の探求でもあるが、このやり方が混迷をきわめている。——現在や未来はいつも過去に似ているものだからと過去を踏襲したがったり、現在も未来もどうせ過去と同じことを繰り返すだけだからと冷笑したり、現在を肯定したいがあまり過去の過ちを隠蔽したり、過去も未来も関係なくいまこの現在だけあればいいのだと刹那におちいったり、過去に楽園があったはずだと現在を飛ばして復古したがったり、過去も現在も諦めてとにかく未来の理想郷を空想したり——いずれにも足を取られずにいたいものだと痛感する。いまの人びとは歴史軸なき無重力的時空に放り出されたといわれるが、それと相まって、あるいはその根本から、人びとは時間というものを嫌悪しているように思う。現在というものに疲れ、時間のあり方を見失っていると言い変えてもいいかもしれない。現在はときに綻びて剥き出しになる。けれど恐れることはない。ホン・サンスが信条とする反復性や、そのなかで顕れてくる刹那性は、現在への恐怖をやわらげる方法論でもある。現在の似姿として過去があるだろう。現在の青写真として未来があるだろう。それらは隣接し、たがいに触れ合い、ときに境界を曖昧にしながら、あなただけのところにあり、あなたはそのすべてにいる。ホン・サンスは現在・過去・未来をひとところに描きながら、現在の一回性というものを軽やかに信じさせる。

ここまで書いてきたことを無粋ながらホン・サンスのコンセプトと呼ぶとして、そのコンセプトを気取られないほどさりげなく成立しているのが『クレアのカメラ』(’17)だ。『それから』の絶唱で破られるミニマルな形式性や、『夜の浜辺でひとり』で螺旋のように逸らされる反復性や、『正しい日 間違えた日』の脆さに危ぶまれる対称性や、そういった方式のようなものが『クレアのカメラ』には前提とされていないように見える。エチュードの集積のように撮っていくホン・サンスの演出法がもっとも率直にあらわれた作品で、キム・ミニとイザベル・ユペールが気散じに呼吸している感じが安らぐ。

『クレアのカメラ』 © 2017 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

なにしろキム・ミニを一躍有名にした『お嬢さん』(パク・チャヌク 2016)は、強要されるAV出演から姫を足抜けさせ、焚書ならぬ溺書によってリベンジポルノを防止し、二人で逃走する姉妹愛のドラマが好調だったのに、結局は女二人で観客を前にポルノグラフィを実演させられるという下劣きわまるラストだったため、キム・ミニとキム・テリの狡く勇敢な美しさがかえって皮肉で、はやく別のところでキム・ミニの姿を見たいと思っていたのだ。

イザベル・ユペール年間と呼んでもさしつかえないほど、近年はユペールの様々な顔を見ている。先頃も『エヴァ』(ブノワ・ジャコー 2018)という怪作が公開されたばかりだけれども、一昨年の『ELLE』(ポール・バーホーベン2016)と『未来よ、こんにちは』(ミア・ハンセン=ラブ 2016)の両極ぶりは凄まじかった。いずれの主人公も50代の女性で、『ELLE』はオールドミスには秘密が、とりわけセックスかトラウマが期待されるという下衆な通念のうえに立ち、世に言うところのキャリア女性である主人公があらわす倒錯の捻転度と暴力の過激度で女性のセクシュアリティを刷新しようという試みだった。いっぽうの『未来よ、こんにちは』は、オールドミスには秘密があるという映画的に使い勝手のよい前提を放棄し、オールドミスを暴きたてるという作法をやめた。いわゆる等身大で主人公が描かれるわけだが、等身大とは寸法の問題ではなく、思考の形式である。スキャンダルもスリルもサスペンスも発生させず、性と知が同等にある女性の姿は哲学教師という主人公のプロフィールに合っていた。

女優の足跡をたどって見る『クレアのカメラ』もまた愉しい。

  • それから』ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中。
  • 夜の浜辺でひとり』ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中。
  • 正しい日 間違えた日』ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中。
  • クレアのカメラ』ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかほかにて公開中。
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