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ポストトゥルース時代の新しい「DUMB」な関係性:高谷史郎【来るべきDに向けて】

ハイアートやインテリジェンスなものに対するカウンターとして機能していた「DUMB(ダム)」というあり方。しかしそれは、激動の現代においても有効なのか。もしそうなのだとすれば……? DUMB TYPE(ダムタイプ)のメンバーでアーティストの高谷史郎による寄稿。

by Shiro Takatani
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17 December 2020, 7:30am

Dumb Type, 2020

LOVE/SEX/DEATH/MONEY/LIFE (performer: Aoi Yamada)

photography Yoshikazu Inoue

坂本龍一とGotchが中心となり発足したオルタナティブ・プロジェクト「D2021」。震災(Disaster)から10年(Decade)の節目を目前に控えた今、私たちはどのような日々を歩んできたのか、そして次の10年をどのように生きるべきなのか。この連載「来たるべきDに向けて」では、執筆者それぞれが「D」をきっかけとして自身の記憶や所感を紐解き、その可能性を掘り下げていきます。

今回は、東京都現代美術館で開催された大規模個展も記憶に新しい伝説的アーティストグループ「DUMB TYPE(ダムタイプ)」のメンバーで、個人としても世界各地の劇場や美術館で公演/展示を行うアーティストの高谷史郎が登場。

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ハイアートやインテリジェンスなものに対するカウンターとして機能していた「DUMB ダム」というあり方。しかしそれは、足元もおぼつかない激動の現代においても未だ有効なのだろうか。もしそうなのだとすれば……。来るべき「DUMB」とは?

ポストトゥルース時代の新しい「DUMB」な関係性 by 高谷史郎

前進していると思ったのは間違いだった。私たちは危機に立たされ、その底の見えない崖の前で、「私たちはこれを乗り越え、新しい世界の入り口に立つのだ」と思っていた……。けれども、その後すぐに気づかされる、自分たちはそれほど前進していないことに。進化のための断崖に私たちは立っていたのではなかったのか?

「2021」は西暦2020年の次の年。そしてその次は「2022」……。数字に意味は無い、しかしある種のイメージがつきまとう。2021は来年「今」になる、その「今」を大事にしなければいけない。

私は「DUMB TYPE」という名前のアーティスト・グループのメンバーです。1984年にこのグループで活動を始めた当時、この「DUMB TYPE」という名前は、いわゆる「High ART」に対してのカウンター、また、メディアアートを製作する中でテクノロジーを制御しきれない時などに思わず呟く言葉(“dumb!”)、そういった意味で付けられた名前だった……(36年も前の話で、いろいろ付け加えたり取り除いたり、修正された記憶)。

最近、特にこの新型コロナウイルス禍の中にあって、「DUMB」というのは今有効なのだろうか? もっと賢明な大人にならなければいけないのではないか? 「INTELLIGENT」に対しての批評的なスタンスは有効なのか? 出口の見えない、国家と経済の暴走の中でこそ「DUMB」というスタンスは有効ではないか? などと、考えたりする。

ただ、この「DUMB」という言葉には、先入観を持たない、無防備な関係性を取れる立場のイメージがあり、その部分はとても重要だと感じます。それは、ナイーブで無垢なイメージだけではなく、先入観を持たない真摯な直感を信じる姿勢です。社会の中でレッテルを重ねて重ねて、やがて意味が掻き消えてしまったノイズの嵐のなかを、ずっと手探りで、何とかつながりを見つけ、人と人が信じ合い、協調するための手がかりを探すためのスタンスとして。そして、そのような実験を繰り返してきたように思います。その意味において「DUMB」という言葉は、ノイズの嵐の中での困難なコミュニケーションにとって有効な立場かもしれません。

今後、社会は閉塞的になり、あらゆる潔癖症的で清潔なイメージが正当化されてくると思います。もちろん、感染することは恐ろしいことです、数%の死の確率があるのですから。ただ、その個としての死の恐怖を乗り越えて、種として共生する方向を見出さなければならないと感じています。時間がかかろうとも、新たな免疫を手に入れること、ウイルスの情報を取り込みDNAに痕跡が残ること、それは将来我々が生き延びるための水平方向の大切なコミュニケーションなのです。

そのスタンスはアートに対する考え方に近いと感じています。美しい現象だが手に取ることも所有することも出来ない虹のようなものです。

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「私たちは何という時代に生きているのだろう?」繰り返し問い続けられる、答えのない問い。何も変わらないのでは? いや極端に変化するのではないかという怖れ。この状況には既視感を覚えます。阪神淡路大震災、911、311……そして今回の新型コロナウイルス……その問いは人間の作ったシステムが脆く崩れ去り、そして復興していく中で、まるで何事も無かったかのように忘れ去られていく。

コロナ禍の後に免疫を得て、これまでと同じ「国家」と「経済」という手に負えない怪物との付き合いの中に戻るのではなく、新しい出会いの方法を考えなければいけません。これまで有効だった、密接な出会いを保証してくれていた、カウンターカルチャーの手法は今の状況では懐かしい思い出のようです。公平で偏在的なネットワークの中の関係性というのも、神的な視線で捉えた場合にのみ有効で、無限に作り出される洪水のようなオルタナティブな情報に飲み込まれないようにしなければいけません。

ネットワークのつながりは私たちに境目のないつながりのある社会のイメージを提供します。しかし、それは未だに実現されない全球的な世界観です。経済的にグローバル化され、国家と国家が競争する世界ではなく、すべての細部が協力し合うようなシステムを考えなければいけません。

人間は協調しないと生きていけない動物だと思います。信頼と協調のシステムを作り出さないといけません。多様性の世界の中で、公平とは何でしょう……利他であることではないでしょうか。それは結果として自分に戻ってくるのです。

様々なレッテルを貼り付けて真っ黒になりレッテルの意味がなくなるまで貼り続ける混交の世界。全て剥がして真っ白にホワイトアウトしていく世界。その白と黒の間にあるすべての諧調を分離せず直感的に共有できる世界を夢みます。

底の見えない崖に立って、沈む太陽を見て実は自分の立っている地面(地球)の方が後ろ向きに回転しているのだと気づくように、状況を俯瞰して見ることは難しい。けれども実は若い世代の人たちはテクノロジーを使いこなし様々なツールで国境を超えて連帯し、思っている以上に軽々と崖を超えていけるのかもしれない。

そして、我々は新たなる「DUMB TYPE」を考え、次に向かいます。来年、「D2021」でその方向性が見えているとしたら、その方向性をみなさんと共有したいと考えています。

D2021

<プロフィール>

高谷史郎|たかたに しろう

1963年生まれ。京都市立芸術大学 環境デザイン専攻卒業。1984年からアーティストグループ「ダムタイプ」の活動に参加。様々なメディアを用いたパフォーマンスやインスタレーション作品の制作に携わり、世界各地の劇場や美術館、アートセンターで公演/展示を行う。1998年からダムタイプの活動と並行して個人の制作活動を開始。パフォーマンス「明るい部屋」(初演:2008年 ドイツ世界演劇祭)、「CHROMA」(初演:2012年 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール)、「ST/LL」(初演:2015年 ル・ヴォルカン国立舞台、フランス)を制作。マルセイユ・フェスティバル、東京・新国立劇場、台北・國家兩廳院等での公演や、ポンピドゥー・センター・メッス、ZKM(ドイツ)、シャルジャ・ビエンナーレ(UAE)などでの作品展示、東京都写真美術館での個展等。また、坂本龍一や中谷芙二子、野村萬斎、樂吉左衞門など、様々なアーティストとのコラボレーションも多数。

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